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バランス

昨日は春のように暖かい一日だった。
こんな日は庭の草取りをしたい気持ちもあったが先送りした。

持ち越しの自治会仕事優先。  年度末故早く仕上げないと、期日が迫っている。
自治会長から、要点を記したメモを5枚渡された。  細かい説明はなく、自治会事情に疎いのに不親切だと思った。
でも、帰り際 「 悪いなぁ 」 の一言に、除草、外回り仕事をあきらめる恨みなど、すべての不服を拭う事としたのだが、書類はできないでいた。 

以前作った書類から、どれか形式を再利用できないかとファイルを繰ってみる。  久しぶりに見るファイルノート、作風はずいぶん変わって来ている、最初の頃はイラストや色使いが多い、一見きれいだが薄っぺらくて嫌気がさす。 再利用不可。


昨年3月、我自治会の何でも屋さん的存在だったSさんが亡くなられて、たまさかパソコンを所持している私が、たったそれだけの理由で書類の作成係にされちゃった。
若い人は働いている、時間がないから昼間在宅者で会を営んで行く、日頃の世話掛けを思えば承諾して当然とする。
が、しかし情けないことには私は経験が無い、断れるものならそうしたかった。


ワードだってエクセルだって習っていないのに、どうするのさ?? 書店に走り、1抱かえも参考書を買い込むが、実際に役立つ記事は本当にわずかだった。  金返せ !  「誰でもできる、超簡単」 誇大広告にはならないのか?
所属するグループの人、地域活動の会、ネットの動画・・・頼りながらやって来た。

私の書類作り傾向は昨秋の頃から変わり始めたが、納得行かず未解決のままだ。
いろんな回覧物を片っ端から見た、色付用紙に印刷されたものは目立った、イラスト、カラー印刷も目立った、でもそれだけだった。
一方、役所の印刷物は洗練されていると思った。
色は使わない、文字の大小、字配り、全体のバランス。    これだ! このフォームだ!
かくて5件の書類は四苦八苦の後仕上がった。  地味ではあるが好ましいと思った。 心の重りが溶け、思い切り背伸びする。


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タブレット

「N談話室」との出会いは2014年、2年前のことである。
所属するメーリングリストで、この会は立ち上げられた。  「Skypeを通してタブレット操作を誰もが使えるようにする」 が趣旨だった。

Skypeをやり始めて間もない私は、面白そうなこの会に飛びついた。  また、タブレットにも非常に興味があった。
しかし、入会して驚く。 自分の考えは、あまりにお粗末だった。
一定以上のスキルを待たれたメンバーに交じって,Eメールしか打てなかった私が、ついて行けるはずもなかっのだ。

インターネットを見ることすら、おぼつかない私、この会について行くのは並大抵ではなかった。
優しいボスが怖かった。 8時~9時 説明がエキサイトすれば興奮と熱気が渦巻き、30分位、裕に越したが、現在では9時終了は厳として守られている。

あの頃、タブレットは手に負えなかった、知らないことばかりで全然わからない、説明を受け、一語、一語書き留めてネットで確かめた。 それでも半分しか理解できなかったが、退会を考えたことはなかった。

各エリアに堪能な知識を持ち合わせ、尚且つ人間味あふれる素敵なメンバーの話が聞けること、そして知らないことを覚えられる醍醐味を知ったからだ。
せめて、もう10年早いスタートだったら・・・思うことしきり。
メンバーの地域構成は広い、北海道~愛媛、外国は南米やカナダの方々まで。  それぞれに個性的で、都合悪く出られない時など寂しいと思える程、この談話室は生活の一部になっている。

8時から~9時までの1時間に見聞できる、日々の暮らしから世界情勢、と幅広く最新のIT知識が飛び交う中に身をゆだね、何がしかの知識を吸収できる事が嬉しくてしょうがない。

メールしかできなかったスタート地点が鮮やかに蘇る。
今、曲がりなりにも、ブログに漕ぎ着けられた幸せ、N談話室や指導してくださる諸氏に限りない感謝の昨今。
何よりは、この会で皆さんとの出会いを得られたこと。
アマゾンで求めたアイパッドエアーは2014年4月29日の領収日付、唯、懐かしく眺む。

捨てよう 古い領収書

領収書を後生大事に取ってある。
7年前までの分だから、汚いし相当かさばっている。 何とかならないかと気にしていた。
今日も押し入れを開けた途端、急に嫌気がして、発作的に捨ててしまおうと思った。

でも、質の悪い二重請求でもされたら、対抗できないから、滅多なことはできないと思い直す。
3年か?いや5年かもしれない、7年台帳を・・・いやいや、私の場合は会社じゃないから台帳など関係ない。
お勝手に立つ間も、堂々巡りは続き・・・

そうだ!ネットが有るじゃん!答えを導き出した。  「 導くだって? 」 本当にそれ位気にしていた。

「通常の請求は事項が1年」 自分はこれを知っていたような気がするが、7年間も取り置いたことは、その辺りからボケ始めたと言えなくもない。
しかし、どうあれ解決した、胸のつかえがす~っと消えて行った。
ありがたいなぁネットって。明日はゆっくり整理にかかれる。

変わったね

C dribeウィンドウズ10 のCドライブの空き容量をみて「おや?」と思った。
円グラフがドーナツになり、色も地味な空色と銀色。
前のように鮮やかなショッキングピンク とブルーのほうがいいと思った。

そんなことは、どうでもいいんだけど、でも寂しい。
すぐに慣れる、すぐに馴染む、感覚ってそんなもんじゃない? 
歩いて来た長い道のりを振り返れば、辛く悲しいことも騙し、だましで来たんだもの。
鋭い感覚は、時間と共に擦り減って鈍くなったり、より高いカタルシスで達観したりして・・・

そんなことは、どうでもいいんだけど・・・

李 泰錫 さん   その3

結婚の風習は、女性はその生家の口減らしのために、男性側の家では労働力確保が本分であった。
年齢差は問題では無く、十分に働ければ、それでよかった。
極端な話、お金の無い男性は、例え恋愛中であっても結婚できない、金さえあれば12歳の少年が家のため、労働力の必要に迫られて、20歳の女性を娶ることなど、ざらで珍しいことではなかった。
畑仕事で疲れた幼い夫を妻がおぶって歩く姿は、まるで親子のようだが、そうではない。

社会は結婚している男性しか一般人として認めない。
年齢が30歳を過ぎて財力、縁故無く結婚を維持するだけの力の無い、貧しい男性は 「 総角 」 (チョンガー)と呼ばれ、その人格は容赦なく格下げの憂き目にあった。
12歳の子供といえども、妻帯者であれば立派な一人前で、結婚していない男性は馬鹿にされた。  狭い道で出会った既婚者と独身者、道を譲るのは独身者、譲られて当然とするは既婚者。
これは、ほんの1例で理不尽な差別はどこまでも続いた。

「チョンガー」 ・・・はて?どこかで聞いたような語彙である。
日本語だと思っていたが、れっきとした朝鮮語。

この話を聞いた泰錫さんはもう居ない。

泰錫さんの孫娘が私にくれた、はがきには 「祖父は祖母の33回忌に旅立ち、待っていた祖母と幸せな再会を果たしたのだから悲しまないでください」 と結ばれていた。

泰錫さんのご冥福を祈って止みません。

李さんのことをお読みくださって感謝に耐えません。 長々とありがとうございました。

李 泰錫 さん   その2

巨済島 (キョサイトウ) で、かなり手広く商売をしていた泰錫さんの父Gさんはヤンバン・一派と言われる二十数名の集団の家長でした。   ヤンバンとは「良家の出」という意味です。
その後、商売がうまく立ち行かなくなり、Gさんは一族郎党二十数名を引き連れて、南の島、巨済島 (キョサイトウ)から北の大地、清津市 (チョンジュン)に大移動、泰錫さん18歳の時でした。

住み慣れた巨済島での豊かな生活とは程遠い過酷な暮らしを、一族の人々はたくましく開拓に置き換えていました。
世代交代も進み、二十数名で端を発したこのグループは、渡日した泰錫さんたちには名も顔も知らない親類縁者が大勢に膨らみ、めでたき所以となっています。

一族の礎となる墓所には礼賛が絶えることなく、大きな法要が営まれる際には、可能な限り日本在住の親族たちが馳せ参じる慣例は今も存続。   法要後の大晩餐会では、時の家長が日本からの親族を客人として迎え入れ紹介する。
そのことが名誉として近隣に誇示されることもしばしばです。

泰錫さんは日本語も母国語も堪能でした。   訳は至って簡単。
朝鮮半島は1910年から1945年まで35年間、植民地として日本の支配下にありました。
許されるぎりぎりの限界に達していた当時、植民地支配は人権侵害、被害、搾取が法的にも道義的にも問題ないとするのが世界的な傾向であったため、1960年に国連総会で植民地独立付与宣言の決議がなされています。

植民地時代、その一環として日本は朝鮮半島各地に学校をを作り、日本語による教育を実施しました。
泰錫さんは、そうした環境で育ったから日本語が堪能だったのです。
「書堂」 と呼ばれるお寺での日本の教育はこうして展開されて行きました。
生徒は男子のみ、女子の参加は認められず、動員されて書堂で勉強する男の子たちを、自分も勉強したいと望む利発な少女らは閉められた戸の外で、中の様子を伺う他ありませんでした。

泰錫さんの日本語学習は10歳がスタートだったそうです。

李 泰錫 さん ( Mr.Lee Taishaku ) その1

巨斉藤 キャプチ1通のハガキが届いた。
それは、李 泰錫( リ・タイシャク )さんが97歳でこの1月24日に他界された訃報だった。

泰錫さんは19歳のとき、北朝鮮の清津市( チョンジン )から渡日されています。
妻の姉、二人の姉たち家族は、すでに神戸で生活基盤を築き、安定した生活を得ていました。

泰錫さんが漠然と渡日を考え始めたのは、1930年、世界大恐慌後のざわついた時期。  

過ごしやすい巨斉島( キョサイトウ )から極寒の地での生活に音をあげた妻の断っての願い、姉家族が渡日を曲りなりにも成功させていること,
それらが、泰錫さん自身の将来への焦りに拍車を掛け、新天地で自分もまた、一旗揚げる決意の一因になったと、そのように語っておられました。

泰錫さんの故郷は巨済島 ( キョサイトウ )です。
韓国の慶尚南道巨済市に属し、同市の大部分を占める島です。
釜山(プサン)の南西に位置し済州島に次いで2番目に大きな島で、日本の対馬との間は対馬海峡、西水道が最も狭い場所で日本との関係が深い、地理的状況です。



美容院

近所に個人経営の美容室が4軒あるが、私はバスで20分の街中まで行く。  

シャンプー台が5基、ミラー席が12台、ドライヤー席4台に順番待ちの長椅子が2本並んでいる。
つまり、長方形店舗の入口を除いた3方ぐるりを機材や長椅子が囲んでいる。
美容師は男女10人前後が常時待機。

大勢の客に対応しているこの店は、いつも繁盛している。
客筋は様々、子供と自分のカットの親子ずれ、年配の女性、高齢女性を伴った、その娘らしき人。男性もいる。
金曜日の10時過ぎ、パーマをかける人、へやカラーの人、シャンプーだけに訪れる人、美容師とのやり取りに
美味しいパンの話や、自慢話、店は活気に溢れている。

チェーン経営ゆえ、スタッフは一定期間で変わり、顔なじみになることはまれである。
私はそこが気に入ってる。  料金が安価な割りには満足のゆく仕事ぶりも。   

馴染みになるのは悪くはない。 
が仕事の最初から終わりまで、噂話で始終する近所の店、何かの毒気に当たった如く、帰宅すればげんなりしてしまう、
疲れてしまうのである。 
自分に合う店を探そうと、入店するが一旦入ると、次回を期待され、継続を期待されカードなどを作られて、別店舗へ変わり辛い
雰囲気になる。   客の取り合いでしのぎを削るのは構わないが、はた迷惑だ。

少々時間はかかるが、何のこだわりも無い美容室を私は使いたい。

杉原 千畝

杉原千畝の映画を観てきた。 出身が岐阜県加茂郡八百津町だったから、身近に感じた。

第二次世界大戦下、日本政府に背き、命のヴィザを発行し続けた外交官。
ナチスの残虐極まりない迫害から、6千人以上ものユダヤ人の命を救ったそんな杉原の物語。(1900~1986) 
ロシア語ドイツ語、英、仏語能力を駆使した大変なインテリジェンスオフィサー(諜報部員)だった。、
日本へ情報を発信し続けたが、彼の正しい情報は取り上げられることは無かった。

ナチスドイツの迫害を逃れた、ユダヤ人は特に多く敦賀港に上陸した。(1940~1941)

それから75年、福井県敦賀市内では当時の市民の温かな受け入れを示す証言も得られている。
没後30年関連資料が、国連教育科学文化機関(ユネスコ)世界記憶遺産に申請される見通しで、市も「人道の港・敦賀」の情報発信に一層力を入れる考え。

当時、市民は上陸したユダヤ人に温かく接した。
長旅に疲れ、わずかな持ち合わせの彼らにリンゴをあげたり、銭湯を開放し、また病気になった人たちが上陸後に受けた治療に大変感謝された。
素晴らしい人、杉原千畝は岐阜県の人。


忙しい誕生日

今日は私の誕生日
ありがたいことには、友人や家族が私のことを覚えていてくれて、沢山のプレゼントをもらいました。

大根、ニンジン、パセリ、自作です。  美しい彩のマフラーと帽子、時間を掛けて編んでくださいました。
一度には食べ切れない、大きな焼き芋、お花、 テンセルの黒いブラウスに組ませたキャメルのカーディガン
静電気予防グッズ、そして、ささやかな夕食の接待、まるで盆と正月が一度に来た如くでした。

最も嬉しかったのは、音信不通になっていた人からのメールでした。
彼は高校時代の先輩、縁がなくて結婚には至りませんでしたが。
連絡が途絶えて久しくなっていた最近。
病気かもしれない、いや、もうすでに亡くなっているかもしれない、そう思っていたので、嬉しいといったらありません。
生きていてさえくれたら、それだけで良いのです。十分なのです。

それから或る篤志家から、家族4人を台北旅行(3月28日~31日)3泊4日のオファーがありました。
かねがね台北は行きたいと思う所でした。   円山大飯店泊、台湾新幹線、故宮博物館 etc・・・
 しかし娘は4日連続休暇は取れず、孫たちはそれぞれの計画があり
せっかくのオファーが水泡に帰し、がっかりポンの私でした。

明日からは、また変わらぬ日々が訪れては去って行くことでしょう。
プロフィール

れいこ24

Author:れいこ24
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